『数学・理科ができる子をつくるには』
永遠に未完の塾学(第41回)
俊英塾 代表 鳥枝 義則
最近は人を理系と文系に分けることに懐疑的な意見が増えているが、私は有効な分類法の一つだと思っている。塾生もほぼ完全にどちらかに二分される。
文系教科は、予備知識があるかどうかで成績が決まる。経験で蓄積される豊富な予備知識があれば、教科書や参考書を普通の人の何倍も速く読めるし、修得した知識がつながり広がることでさらに知識が増えていき、成績も上昇する。
理系科目の修得には、すぐには解けない難問に挑み、くじけそうになりながら我慢し辛抱して正解にたどりつこうとする忍耐力が必要になる。有名なフェルマーの最終定理などは、天才数学者たちが挑戦し続けて証明されるまでに350年ほどを要した。これは極端な例だが、小・中学生や高校生が理系科目の成績を伸ばすには、やはり、脂汗を流しながら難問に挑戦し続ける学習態度が必須である。
文型人間は既習した知識を武器にさっさと問題が解けることに幸せを感じ、理系人間は目の前の難問に苦戦した末にやっと解けたときに限りない喜びを感じる。
勉強をする楽しさ、できたときの喜びの感じ方が、文系と理系では真反対なのだ。
私は文型人間だ。国語と社会はそんなに勉強しなくても、模試では学年上位の常連だった。逆に、数学は習得度別クラスでいつも下位クラスだった。
ところが、独立して開塾したとき、女子高、女子大を卒業した妻が私に輪をかけて数学嫌いだったので英語を担当し、文系の私が数学と理科を担当することになった。30年前、わが塾の成長期に、参考にしたいと授業を見学にいらした羽曳野市の黒川先生が、「ひどい授業だなぁ、びっくりした……」と呆れて帰られたことを今でも思い出す。そんな私だからこそ、今は数学や理科が嫌いな塾生がいかなる理由で理系教科ができないのか、勉強の仕方のどこが間違っているかがわかる。
文系は過去の経験に胡坐をかく「怠け者」であり、理系は理論・推論を武器に難問に挑戦することに喜びを感じる「変わり者」である。そして、最終定理の証明に命をかけた「変わり者」だけが、科学を、文明を、これまで進化させ続けてきたのだ。
SNS上でよく議論される問題に、かけ算の順序問題がある。
「5枚のお皿にリンゴが2個ずつのせてあります。リンゴは何個ありますか」という問題で、わが子が5×2=10個と式を書いたところ、正解はリンゴが2個ずつ5皿だから2×5=10個が正しい式であり、×にされたという書き込みがきっかけで、論争が始まることが多い。
議論の趨勢としては、まず、採点をした学校の先生の融通の利かなさを断ずる親の意見が殺到した後、理系の専門家が乗法の「交換法則」を根拠に5皿×2個も正解だと先生批判を述べて決着がつく。
しかし、私は、理系こそ2個×5皿であるべきで、少なくとも小学生に5皿×2個もありだと教えるのはよくないと思っている。一つのお皿にリンゴが2個のっていて、それが5皿あるから2×5だという理屈は小学生にも説得力をもつ。しかし、項の前後を入れかえても結果は正しいという分配法則を、かけ算を習い始めた小学生2年生が理解できるとは思えない。何も考えていないか、問題に書いてある順にお皿の数を先に持ってきて5×2と書いただけだ。
これこそ、理屈優先の理系の教えに反する。
いまだに、小学校6年生の速さの単元で、キ・ハ・ジの図を使って式を立てさせる先生がおられる。
キ・ハ・ジ方式とは、丸の中の上に「キ」、左下に「ハ」、右下に「ジ」を描いて、距離=速さ×時間、速さ=距離÷時間、時間=距離÷速さの3つの公式を理屈抜きで覚えさせるやり方だ。役に立ちそうだが、キ・ハ・ジの図を書いて解いている子で算数、数学のできる生徒を見たことは一度もない。
そんな便法を使わなくても、例えば速さのうちの「時速」とは「1時間に進む距離」だと、理論の基礎である言葉の意味をしっかり意識づけて、2時間だと距離=速さ(1時間に進む距離)×2時間だと教えた方がどれだけ応用が利き、役に立つことか。
速さを、秒速は1秒間に進む距離、分速は1分間に進む距離、時速は1時間に進む距離としっかり意味を理解させれば、多くの子どもたちが苦労する「秒速5メートルで2分進むと何メートル進むか」といった問題も、2分を120秒に換算して簡単に解けるようになる。
一番大切な言葉の定義を曖昧なままに放置しておいて、意味のない暗記法を強いたって何の役にも立ちはしない。もう一つの難問、小学5年生の割合の問題も、解けるかどうかは言葉の意味、定義を理解しているかどうかで決まる。
例えば賢い子は、助詞の「の」は×(かける)、「は」が=(等しい)だということを理屈で理解している。だから論理的に式をつくることができる。「500円の3割は」という問題だと、「の」は×、「は」は=だから、即座に500×0・3=150と式をたてることができる。
言葉の「の」や「は」が式を表す言葉であるように、逆もまた真である。
式を書いてから解こうとしない人は、絶対に数学と理科ができるようにはならない。式は論理の展開を数字と記号で表すものだから、式を書かない子は理系の根本である論理の展開ができない。頭に浮かんだ思いつきだけで問題が解けると思っている。何歳になっても、かけ算の九九をやっと覚えて反射的に「あ、二四が八だ!」ですべてが解決すると思っている小学2年生のままなのだ。
頭に浮かんだ理屈を数式で表したものが式だ。どんな複雑な理屈も、式を書き、理論を書き残していくことで、推論し、確認することができる。算数、数学ができない人の「考える」とは、空を睨んで時間をかけているという意味だ。頭にかけ算の九九が浮かんでくるのを待っているだけで問題が解けるはずがない。
「考える」とは、まず式をつくることだ。それがわかっている理系の人は、脳を使い、目を使い、左手でノートを押さえ、右手で式を書いていく。どんな複雑な理屈も、式を書き、書き残していくことで、推論し、確認することができる。
さらに、式を書く延長として、グラフの問題や図形の問題だと、問題文に書かれていることや文中の言葉から推測できることをすべてグラフ、図に書き込んでから式をつくり、解こうとする。脳はすべてを俯瞰した上で結論を出す。だから解ける。
新中学1年生の最初の授業で、私はまず、「数学は言葉の意味を正確に理解する教科だ」と強調する。次に「式、それも途中式を論理的に書かない人は絶対伸びない」と矯正する。その前提として、「グラフや図に書き込めることは必ず書き込んでから解き始めるように」と諭す。
世の中のことはすべて、「正しいやり方」さえ身につけたら、解決したに等しい。
●学習支援サイト『働きアリ』 http://blog.livedoor.jp/aritouch/
勉強をしている子どもたちが、悩み、知りたい、理解したいと思いながら、今までは調べる方法がなかった事柄を、必要かつ十分な説明でわかりやすく記述したサイトです。